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エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由

エジプトの近代化への改革はなぜ失敗したのでしょうか? 写真はカイロにあるムハンマド・アリ・モスク(写真:HiRo/PIXTA) エジプトの近代化への改革はなぜ失敗したのでしょうか? 写真はカイロにあるムハンマド・アリ・モスク(写真:HiRo/PIXTA)

日本の政治・経済・社会の大変革を成し遂げた明治維新。同じように近代化を目指したのがアフリカの大国エジプトですが、その改革はエジプト社会に光と闇を生むことになります。『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史)』の著者、尾登氏にエジプトの近代化への改革について歴史を流れとともにわかりやすく解説してもらいました。

■エジプトにやってきた西洋の衝撃

 第7回十字軍の混乱の中で生まれたエジプトのマムルーク朝は、1517年に「イスラムの盟主」オスマン帝国に滅ぼされ、その支配下に入りました。

 ところが、16世紀からオスマン帝国の無敵神話は崩れ始めます。エジプト南部は、かつては小麦の一大産地でオスマン帝国の穀倉庫でしたが、土着の領主がフランスから生糸や綿花を取り入れて栽培し始め、フランスや仏領西インド諸島と経済的に強く結び付き、フランスの世界的な商業ネットワークの一翼として取り込まれてしまいました。

 ナポレオンの時代、フランスはイギリスのインド支配の打破と通商路の破壊を目指してエジプトに侵攻。マムルーク主体のエジプト軍は、カイロ西部のインバーバで行われた「ピラミッドの戦い」でナポレオン軍に大敗を喫し、2年間ではありますがフランスの支配を受けることになります。

 この敗北によりエジプト人は西洋の軍や技術の脅威をまざまざと見せつけられました。フランスの支配はエジプト人に民族意識や攘夷意識を芽生えさせ、カイロでは大規模な抵抗運動に発展しました。この人々のエネルギーを束ねて近代化を目指したのが、エジプトの維新の立役者、ムハンマド・アリーです。

 ムハンマド・アリーはオスマン帝国のアルバニア人非正規部隊を率いてフランス軍との戦いに参戦し、そこから急速に頭角を現していきます。

 ナポレオンのフランス軍が降伏しイギリス軍も撤退した後、エジプトは諸勢力が主導権をめぐって争う内戦状態に突入します。ムハンマド・アリーはその中で競争に打ち勝ってエジプト人の支持を得て総督に就任。オスマン帝国の承認も得ることに成功します。

■ムハンマド・アリーのエジプト維新

 エジプト総督となったムハンマド・アリーは、オスマン帝国の名目的な宗主権の下、実質的な独立国を築き近代化政策を進めていきます。

 まずムハンマド・アリーが乗り出したのは軍事改革です。それまでの特定の部族や集団に依存していた軍の組織を廃止し、初めてエジプト農民に徴兵制を敷き兵力を増強し、フランス人の軍事顧問を招聘し訓練を施しました。

 近代的に生まれ変わったエジプト軍は、オスマン帝国軍が手こずっていたワッハーブ派やエジプトの反オスマン騒乱、ギリシアの独立勢力をまたたく間に鎮圧してみせ、列強を驚かせました。

 しかし、英仏露の3カ国はオスマン帝国にギリシアの自治と停戦を要求。オスマン帝国は同意できるはずもなく、1827年10月、オスマン帝国とエジプトの連合艦隊と英仏露3カ国連合艦隊との間に戦闘が勃発し、オスマン・エジプト連合艦隊は敗れてしまいます。

 激怒したオスマン帝国の皇帝マフムト2世は、3カ国に宣戦布告しますが、連戦連敗。1829年9月にアドリアノープル条約を結び、ギリシアとセルビアの自治を認めさせられ、翌年ギリシアは独立することになります。

 この頃、ムハンマド・アリーはオスマン帝国にギリシア戦役の論功行賞として要求していたシリア(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ)の総督職を要求します。しかしオスマン帝国も財政難で、マフムト2世も首を縦に振らない。

 ムハンマド・アリーは実力でシリアを奪取すべく、急ピッチで軍の再建を進め、2年後の1831年10月に歩兵と騎兵計八個連隊がシナイ半島に向けて出発。海でも軍艦16隻を始めとする海軍がシリアへ向けて出港しました。ムハンマド・アリーの息子で有能な将軍イブラーヒム率いるエジプト軍は、新たに設立されたオスマン帝国の洋式軍隊相手に連戦連勝を続け、とうとう首都コンスタンティノープルの近くにまで迫りました。

 ここでエジプトの強大化を恐れるロシアとイギリス、フランスの介入があり休戦協定が結ばれ、シリア地方のエジプトの領有が認められました。イブラーヒムは獲得したシリア地方の土地の国有化や税制改革、教育など近代化策を進めていきます。

 このようなエジプト軍の成功は、社会、経済、産業、教育など広範囲な面での近代化に裏打ちされていました。

 ムハンマド・アリーは権力奪取後、すぐに財政・税制改革に乗り出し、中間搾取層を撤廃し、農地を一元的な管理の下に置き、効率的な徴税を可能にしました。また、農産物の専売制を実施し、小麦や米の輸入で外貨を獲得します。専売制や国の独占は農業のみならず工業面でも実施されました。

 ムハンマド・アリーは国家主導で製造業を育成し、軍需工場、綿工業、毛織物などさまざまな分野の国営工場を設立。同時に安くて品質の高いイギリス産の製品の輸入を規制し、産業の保護を図りました。

 ムハンマド・アリーは「後発国を発展させるためには自由貿易は規制すべき」と考えており、国産品の品質が上がり国際的に競争できる水準になるまで、国による保護と育成が行われるべきとしました。

 ムハンマド・アリー統治下のエジプトの経済開発体制は、「軍・政治エリートの強力なリーダーシップの下、有能な官僚テクノクラートが経済政策を立案・実行していき、上から企業・資本家・労働者を育成していく」という典型的な開発独裁型でした。

 これは20世紀半ば以降に、韓国やタイ、台湾、シンガポールなどの国々が経済発展を成し遂げたやり方の先駆的なものでした。しかし、運悪く、このような成功は長続きしませんでした。

■エジプトの敗北と挫折

 イブラーヒムが統治するシリア地方では、エジプト流の急速な近代化政策が採られますが、各地で反乱が相次ぎました。

 これに乗じてオスマン帝国のマフムト二世は失地の回復を図ろうとして対立が深まり、1838年5月にムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言するまでに至ります(後に撤回)。

 翌年、マフムト2世はエジプトに宣戦布告。アナトリア方面軍ハーフィズ・パシャ率いる八万の軍がシリアに向かいますが、またしてもエジプト軍はオスマン帝国軍を各地で打ち破り、オスマン帝国はエジプトに降伏してしまいます。これは、オスマン帝国の実質的な解体と新興国家エジプトの台頭、そしてロシアの南下を決定づける出来事でした。

 これ以上の事態の進展は自国の外交・通商政策の障害となると判断したイギリスが介入に乗りだします。イギリスは列強に働きかけたうえでオスマン帝国にエジプトとの妥協を禁止し、エジプトにこれまで獲得した領土のうちスーダンを除くすべてをオスマン帝国に返還するように要求。

 この強硬姿勢に、オスマン帝国も方針を転換しエジプト軍の撤退を要求する通告を突きつけます。ムハンマド・アリーはフランスの介入を期待しますが叶わず、イギリス・オーストリア・オスマン帝国連合軍の攻撃を受け、シリア各地で連戦連敗。エジプト軍は壊滅寸前に陥り1841年に降伏。ロンドン条約を結びました。

 この条約で国軍は必要最小限にまで縮小させられ、主要産品の政府の独占・専売も廃止され、治外法権や低率の関税など、経済的にも不利な条項を認めさせられました。

 ここにおいて、ムハンマド・アリーの「維新」は完全に崩壊となります。彼が生涯をかけて築き上げてきた新興大国エジプトは、その後イギリスの経済的な従属国となっていくのです。

 ムハンマド・アリーはその後も、イギリスの軛(くびき)の下で何とかエジプトの財政や国際関係を再生させようと努力しますが、失意の中で1849年8月に80歳で亡くなりました。

■エジプト近代化政策がもたらした光と闇

 ムハンマド・アリーは一代でエジプトを強大国に成長させたどえらい男ですが、彼がエジプトにもたらしたのはよいことばかりではなく、近代化に伴うさまざまな歪みも社会にもたらしました。

 ムハンマド・アリーは急速な国の近代化を進めるために、軍備拡張やインフラ整備や工場投資に莫大な費用を投じました。ギリシアで壊滅させられた海軍を再建するのにも相当な費用を使っています。しかし結局、領土拡張も失敗に終わり、経済開発のための多額の投資も、コストに見合うだけの充分なリターンを得られず、借金は天文学的に膨れ上がっていきました。

 その財務赤字のしわ寄せは、支配層を介した農民への無茶な労働ノルマや重税として降りかかりました。農民の中には生活費にすら困窮し、土地を売って逃げたり、借金をして破産したりする者が相次ぐようになります。

 農民を困窮させたのが、政府が強制した無償労働です。

 エジプトでは伝統的に「アウナ」と呼ばれる、共同体のメンバーが集まり地域のために無償で働く慣習がありました。村々を囲む灌漑用水路を掘ったり、川の氾濫を防ぐ堤防を築いたり、その地域の農業に深く根ざしたものでしたが、ムハンマド・アリーはこの慣習を拡大解釈し「エジプトという故郷のために」農民たちを遠方に派遣し、さまざまな土木工事を課しました。この労働に対し報酬が支払われることはありませんでした。

 農民は困窮し、一家で逃散する者が相次ぎ、無人耕作地帯が多数出現します。政府はそれら無人の地を王族やトルコ人支配層(ザワート層)に下賜しました。

 農民の中には、ザワート層に取り入って特権を手に入れ、村落の有力者(アーヤーン層)となる者が出現しました。彼らは各村落を支配して農民を支配下において綿花栽培の経営層となり、エジプト農民を収奪する国際金融資本の手先となります。

■イギリスによって借金漬けとなったエジプト

 ロンドン条約によって海外資本の規制が撤廃され、さまざまな海外資本がエジプトに進出してきますが、大きな影響力を持ったのがギリシア人の金融業者でした。

 彼らは治外法権を盾にしてヨーロッパ式の商習慣を持ち込み、困窮するエジプト農民に高利で金を貸しました。勝手を知らない農民は土地を担保にして金を借り、返済できずに破産して土地を奪われてしまいます。金融業者は財政危機にあるエジプト政府が進めるインフラ整備に投資することで、有利な条件でインフラの使用を認められました。

 エジプトが借金まみれになると彼らは特権的に港湾施設を利用する権利を得て、綿花の輸入業を独占的に行うようになります。

 このような金融業者はグローバル金融資本の末端組織であり、中心部はイギリスの大銀行や証券会社。イギリスの金融業者は上は政府から下は農民までエジプトを借金漬けにしました。

 エジプト政府の公的債務は1864年~73年には6520万ポンドにまで膨れ上がり、とうとう1876年、借金が国庫の45%にも達し、エジプト政府はイギリス・フランス両国による財政管理下に入ることになりました。

 こうしてエジプトの近代化改革の結果は日本とは異なり、欧米に比する列強の仲間入りを果たすどころか、半ば植民地状態に置かれることになってしまったのです。

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